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絵を描くということ

by 長尾彰

津村葉子さんと話をしていて、自分のことを振り返って気づいたり大きな発見があった。

僕は絵を描くのが苦手だ。

妻・娘達・友人に言わせると

「気持ちが悪い」

「病的だ」

「狂気を感じる」

「なんでそんな絵が描けるの」

「怖い」「天才だ(異常という点で)」

というタッチの絵を描くらしい。

そんな僕は小学校2年から6年まで絵画教室に通っていた。

2つ上の兄も通っていた。

絵を描くのは苦痛だった。

3年生のとき、僕の世界はキン肉マン一色で、僕はバッファローマンが好きだった。

上手にバッファローマンが描けるようになりたかった。

いわゆる漫画のバッファローマンではなくて、キン消しの(立体の)リアルなバッファローマンが描けるようになりたかった。

でも先生は「漫画ではなく、この花瓶を描きなさい」と言った。

僕は「なぜこの花瓶を描かなくてはならないのだろう」と思ったが、怖いので口には出さなかった。

こっそりスケッチブックにバッファローマンを描いた。

先生に見つかって、怒鳴られた。

それ以来、「描けと言われたものを望まれたように描く」というスタンスになった。展覧会にも出展して、賞ももらって、所沢の今はなきユネスコ村に賞状をもらいに行った。

先生もお父さんもお母さんも嬉しそうだった。

僕はあんまり嬉しくなかった。

「こう描いたら怒られずに済むかな」「こう描いたらみんなが納得してくれるかな」という気持ちで絵画教室に通っていたからだ。

正確には、「通わされていた」からだ。

絵画教室が終わると茶飴をもらえた。

教室の隣の公園の大きな砂場で遊べるのが楽しかった。

公園の隣の駄菓子屋でおっぱいアイス(今も実在する)を食べるのが好きだった。

でも、結局「絵を描くこと」は好きになれなかった。

図工の時間も「望まれたこと」をしようとしていた。

木工は好きだった。

お父さんは大工で、工場(こうば)で柱からホゾを削り出して組み合わせていく過程を見せてくれて、それはまるで手品みたいで、カンナやらノコギリやらトンカチやらスミツボやらサシガネやらでただの柱が「家の一部」になっていく姿がとっても面白かった。

そういえば、教室のあの先生のこと、すっかり忘れていた。

そりゃそうだ、あれからもう30年が経つのである。

確か、望月先生だ。

弟さんが漫画家で、僕と同じ名前の「望月あきら」さんだったんだ。

「望月あきら」で検索してみる。

「サインはV!」「ゆうひが丘の総理大臣」の作者である、と。

マジでか。

村上もとかさんや池沢さとしさんがアシスタントであった、と。

マジでか。

漫画家の望月みさおは実兄である、と。

マジでか。

漫画家だったのか。

30年にして初めて知る事実。

「望月みさお」で検索してみる。

超クールな絵がたくさん出てくる。

少女怪談シリーズ。

「猫になりたい」

「母地獄」

「階段まむし母」

「もう母さんはいない」

めっちゃクールやんけ。

めっちゃ漫画描いとるやんけ。

30年の時空を超えて、ようやく僕は「みさお先生が描くような絵が描けるようになりたい」と思った。

津村さんの絵を見た時に、あるいは津村さんがさらさらとレポートパッドにイラストを描いていくところを見た時に、あるいは津村さんの浮世絵の作品を見た時に、「ああ、僕も津村さんみたいに絵が描けるようになりたいなあ。

でも基本や型をきちんと学ばれてるからこんな素敵な絵が描けるんだよな。その技術(基本や型)を学びたいなあ」と心から思った。

「学びたい」と思ったのだ。

ちなみに津村さんは作家でありながら美術教師もしている。

みさお先生があの時「バッファローマンってこうやって描くんだぜ」っつって化け猫もとい化け牛風味のバッファローマンを描いてくれたら、「そうか、だから影の付け方を練習するために花瓶なのか」と僕は納得したかもしれないしあるいはそれで納得しなかったかもしれない。

でも僕は少なからず津村さんの作品を観て「学びたい」と思った。

描きたいものが描ける、って楽しいだろうなあ、自分もそうなりたいなあ、と思った。

望月みさお先生は、僕が中学生になった頃に亡くなってしまった。

もう先生はいない。

ミメーシス。

感染的模倣。

憧れに基づく学習欲求。

「ニャ〜〜〜ン」の絵なら描けるかもしれない。

でも、もう先生はいない。

そういう話。

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